永原康史(ながはら・やすひと)
グラフィックデザイナー。80年代からコンピュータによるデザインに取り組む。印刷物から、電子メディア、展覧会のプロジェクトまで幅広く手がけ、メディア横断的に活動する。2005年愛知万博政府館「サイバー日本館」、2008年スペイン・サラゴサ万博日本館サイトのアートディレクターを歴任。1997年〜2006年、IAMAS(国際情報科学芸術アカデミー)教授。2006年〜2023年、多摩美術大学情報デザイン学科教授。『日本語のデザイン 文字からみる視覚文化史(Book&Design)、作品集『よむかたちデジタルとフィジカルをつなぐメディアデザインの実践』(誠文堂新光社)など著書多数。監訳書にジョセフ・アルバース『配色の設計 色の知覚と相互作用』、カール・ゲルストナー『デザイニング・プログラム』(共にBNN)など。
ブラックマウンテンカレッジへ行って、考えた
Description
伝説のリベラルアーツスクール、その知られざる軌跡。
アパラチア山脈の麓に開学され、20世紀を代表する芸術家がこぞって過ごした「ブラックマウンテンカレッジ」とは何だったのか──グラフィックデザイナー・永原康史の丹念なフィールドワークで鮮やかに甦る、ブラックマウンテンカレッジの25年間。
バウハウスが解散したその年に、ブラックマウンテンカレッジ(BMC)は誕生しました。美術教育を先導したのは、ジョセフ・アルバース。アルバースの名言「To Open Eyes(目を開くこと)」は、BMCに着任したときの言葉であり彼の授業のテーマでした。学生と教員家族が共同生活を営み、キャンパスの自主建設さえプログラムに組み込まれていた、学校というよりコミューンと呼ぶほうがふさわしいかもしれない「実験の場」で、バックミンスター・フラーがドーム建築を試み、ジョン・ケージが最初のハプニング「シアターピース#1」を実行し、マース・カニンガムが舞踏団を結成、チャールズ・オルソンの下、ブラックマウンテン詩人と呼ばれる一群が生まれます。
20世紀を変えた実験的芸術教育──ヨーロッパのモダニズムがアメリカに流れ込む契機となり、戦後アメリカの美術や文学に多大な影響を与え、インターネット文化のバックグラウンドを形成した──として語り継がれるBMCは、しかしこれまで「いつか見た夢」のようなヴェールに包まれていました。その運営の内実は、出入りした人間の数だけ思想が入り交じり、矛盾を孕みながら試行錯誤を重ねていたのです。大勢のアーティストが、BMCという共同体で何と出会い、どういう関係を育んだのか──「国家」や「移民」、あるいは「分断」を抱えて──そこには、今私たちが探しているコミュニティの在り方へのヒントがあります。
※本書はウェブメディア「ÉKRITS(エクリ)」の連載を加筆・修正のうえ書籍化したものです。
ISBN:978-4-8025-1298-5
定価:本体3,000円+税
仕様:四六判/上製本/424ページ
発売日:2024年12月18日
著者:永原康史
デザイン:永原康史
Profile
Contents
1 アッシュビルに旅して
1933年
アッシュビルへ
BMC物語の始まり
LOVE ASHEVILLE GO LOCAL
アーカイヴを探る旅
2 エデン湖をめぐって
新BMCミュージアムの開館展
ダウンタウンからエデン湖へ
デューイとライス
エデン湖キャンパス
キャンパス建造プロジェクト
ダウンタウンのブックストア
ライスの退任
伝説の夏期講座の始まり
3 ウンシュの時代
1944年の夏期講座
BMCのカリキュラム
アルバースの講義ノート
ウンシュの事件
実験のはじまり
4 奇跡の夏
ふたつのインタビュー
サティ・フェスティバルとメデューサの罠
最初のジオデシックドームの実験
戦後アメリカ美術の発火点
5 夢の終わり
エデン湖キャンパスを歩く
アルバースの退任
経営者としてのテッド・ドレイアー
チャールズ・ペローの回想
もうひとつの退任譚
エデン湖とダウンタウンでの出来事
6 若いアメリカの台頭
フラーがつくった夏期講座
ジオデシックドームの完成とテンセグリティの発見
1952年のハプニング
ロバート・ラウシェンバーグとスーザン・ヴェイユのこと
7 終焉と再生
ふたたびブラックマウンテンへ
チャールズ・オルソンをたずねて
M.C.からの手紙
ハロウィンの夜
52年の陶芸セミナー
変わるもの、残るもの
8 ブラックマウンテンの詩人たち
投射詩論について
1970年代、京都
Second Heave─第二のうねり
The Black Mountain Review
北園克衛のこと
最後の学生
9 残像を探して
ふたつの展覧会
音楽の町で
BMCからNYCへ
日系ブラックマウンテニア
ルース・アサワをめぐる